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文学・評論

徹底追及 「言葉狩り」と差別

週刊文春編 平成6年(1994)10月1日

1994年と古い本だが、きっかけがあって読んでみた。とても興味深かったし、いろいろ感慨を持った。確かに特定の言葉に異様に反応した時代があったと思い返す。私自身、英国の時代小説を翻訳出版したとき、「気違いのように」という言葉を使ったら、差別用語だから直せと言われた。昔からある比喩だし、文脈から離れてただ言いかえるのはおかしいとは思ったが、編集者は或る種の権力者だし、当時はあまり深く考えないで直した。何に直したかは忘れたが。

本書を読むと本当に大変な騒動だったようだが、いつの間にかメディア界で放送・出版禁止用語を避けるとか、歴史小説という断りを入れるという程度で鎮静化していった。海外でも、日本ほどではないがそういう動きはあって、同様の経過をたどったようだ。特定の言葉を排除したからといって、それだけでは差別はなくならないのだということをみんな分かってきたからだろう。いやそんなことは当時だって、心のうちではみんな分かっていたはずだ。BlackをAfrican Americanと言いかえたからといって、黒人が簡単に射殺される事態は変わらない。SNSでは、特定の立場の人の存在そのものまで否定するような言説が溢れている。今は出版メディアだけを攻撃して済むという時代ではなく、多少の規制はあっても、ネットではほぼなんでも言いたい放題だ。

それでも大部分の常識ある人間にとって、言葉に敏感になり、ある種の言葉は人を貶め傷つけるのだと気がついただけでも、意味のある事件だったのではないか。権威や力のある人間から言われると、事柄の本質をきちんと考えたり議論したりせずあっさり引っ込める「無責任の体系」(私もそのひとり)、日本人の悪い癖だが、本書などはそうした傾向に抗した努力として評価できるし、良い意味で後代に影響を及ぼしたと思う。

今は別の意味で言葉の重さを感じる時代だ。セクハラやパワハラ、Me Too, LGBTQ。私が若い頃セクハラはいくらでもあった。でも私たちはそれが差別だとは思わなかった。その限りで差別は「存在」しなかったのだ。もちろん男たちにとっても。言葉が事態を可視化する。見えるようになったからといって、それで終わりではない。どこまでがセクハラでどこまでがそうでないかは微妙な問題だが、どこかで線を引かなければならないならない場合、成熟した社会の成員の集合知が必要である。

2023年6月現在、言葉を変えれば事態も変わると思っているオメデタイ、しかし醜悪な慣行は一部の保守政治家に移っているようだ。「性自認」を「ジェンダー・アイデンティティ」に言い換えて、彼らは一体何を変えたと思っているのだろう。こんなことが通用している限り、日本社会は成熟とは程遠いことは確かなようだ。

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