ミシェル・フーコー フレデリック・グロ編/ 慎改 康之 訳 新潮社 2020.12.20
フーコーの『性の歴史』を制覇してやろうなどと思った訳ではない。第四巻が出て買ったのは、キリスト教にとって celebacy というのはどういう意味を持つのか、なぜそれが聖職者にとって必須の条件になったのか、その経緯を知りたいと思ったからだ。
当然ながら、こういう事実的な問いについてストレートな答えはなかった。もちろん無関係ということはない。初期キリスト教教父たちの貞潔や婚姻に関わる教えについて、膨大な資料を駆使して微に入り細を穿って論じているのだから。
しかしこうした初期キリスト教徒たちが求めたのは単なる生理的な禁欲ということではなかった。訳者解説によれば、二世紀~五世紀の西洋においては、修道制の発達により、「欲望の解釈学」が形成されたという。「自分自身の奥深くに隠された秘密を探査し、それを他者に対し言葉で現し出すという、際限のない解釈学的任務が、修道制における修練の実施において課される」(p.547)『性の歴史』II/IIIで、性の問題をめぐって自己が自己に働きかける「自己の技術」がいかに形成されたが明らかにされるのだが、四巻に至ってそれはさらに精緻化され、最終的には西洋の人間が自己を「欲望の主体」として形成する過程につながる。それは近代における性についての言説の氾濫と、地下水脈のようにつながっていることなのだろう。
こうした問題意識は、教父たちの説教をこれでもかこれでもかと連ねる本書の文面から、もちろん私には読み取れるわけがない。訳者解説を読んではじめて、そういうことだったのかと、そこそこ納得するという始末である。フーコーの書籍の森はやはり練達のガイドなしには歩けないし、道に迷ったら二度と出られない恐ろしいところなのである。気を付けなければ!