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人文・思想

歴史認識とは何か

――対立の構図を超えて

大沼保昭 江川紹子 中公新書 eBooks 2015.09.10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦争責任や人権問題について、本当に真摯に取り組んできた大沼氏の著作だから、当然と言えば当然だが、本当にバランス感覚に優れ、しかし間違ったことははっきり間違いだと言って妥協しない、素晴らしい一冊である。

東京裁判や従軍慰安婦の問題について、もしも正しい、と言って悪ければ妥当な答えがあるとすればここにあると確信をもって言える。特定のイデオロギーや政治的立場から結論を先に出すことなく、かといって中立の立場だから態度を決めないというのでもなく、あくまでも当事者本位、人間本位の立場が貫かれている。

氏自身、例えばアジア女性基金の活動のなかでは、決してきれいごとではなく違う立場の人々の泥沼のような葛藤に巻き込まれ、満身創痍となりながら少しでも女性たちのためにと頑張ってこられたのだろう。

歴史認識については自分はある程度見識を持っていて、今さら新しく学ぶこともあまりないだろうと思っていたが、それは大きな間違いだと気づいた。東京裁判についても事実認識はとても貧しかったし、アジア女性基金についてもよく分かっていないことがたくさんあった。

特に私が気になっていたのは、過去に西欧諸国は植民地主義、帝国主義政策で散々他国を蹂躙してきたではないか、なぜ遅れてきた日本だけがそんなに責められなければならないのか、逆に言うと日本は中国や韓国に対して、いつまで、どこまで謝罪しなければならないのか、西欧諸国はろくに謝罪もしてないのになぜ非難されないのか、といった議論である。もちろん私はそうした議論に同意しないが、かといってそれに有効な反論も用意できていない自分を自覚していた。

ナチス被害者へのドイツの賠償は有名である(問題はあるにしても)。アメリカは戦時中日系人をを強制収容所に送ったが、それは謝罪した(不十分でも)。 イギリスが過去に植民地化したインドや中国に謝罪したという話はきかない。ローマ教皇はガリレオ断罪を取り消して謝罪したが、ローマ帝国がかつてゲルマン民族を征服したから、現代のイタリアがドイツに謝罪したという話はきかない(これはまあ冗談だが)。いったい国家間や民族間の不当不正な行為は、どこまで糾弾され、どこまで謝罪されるべきで、どこまで許されるべきななのか、考えてみれば明確なラインを引くことはできない。このことについては今までかなりもやもやしていた。

しかし本書を読んで、この辺りがかなりすっきりした。この問題については過去の国際関係や制度的法的整備の問題を考慮にいれなければならない。国家間の問題を戦争で解決するのが当然であった時代に、現代の基準を持ち込むのは無理がある。しかし既に植民地主義が問題とされてきていた時期に、植民地の利権を手放さなかったイギリスやフランスには、国際社会に道義的責任を問い反省を求める権利はある。しかしだからといって、すでに確立した国際法に明らかに違反した日本のアジア侵略を容認するのは、話が別である。「欧米だって悪いことをやってきたのだから、日本がやって何が悪いのか」ということにはならない。

不完全な人間という生き物が作っているこの社会だから、どんな問題にせよ絶対に正しい答えというのはあり得ない。時間的空間的制約もある。そのなかで、制度はどうであれ、今現実に生きている人間の人権や生活や幸福を優先して考えていこうというのが、大沼さんの考えだと思うし、私はそれに心から共感する。歴史認識の問題とはつまるところ、自分よりも辛い思いをしてきた同時代の人々への想像力と共感力の問題ではないだろうか。

最後に、聞き手の江川紹子さん、一流のジャーナリストとして一家言ある人だと思うが、今回は聞き手に徹して、むしろ背景知識に乏しい読者の立場に立って大沼氏の考えの本質的なところを引き出してくれていて、さすがだと思った。大沼氏が全部書くより分かりやすく読者に届きやすい本になったことは確かだ。