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文学・評論

Klara and the Sun

Kazuo Ishiguro Faber and Faber 2021

いつとは特定されていない未来社会である。Klaraは太陽エネルギーで稼働するアンドロイド=AF(人造友人)。
経済的に余裕のある階層のの子どもたちは、はっきりとは分からないが何らかの処置(Lifting)を受けて、高い学習能力(知能?)を得られる。彼らは学校という集団で学ぶことはなく、家庭のなかでタブレットやコンピュータを通じで学習する。だから彼らは同年の子どもたちと遊んだり一緒に学んだりということがほとんどない。

それと引き換えに彼らは仲間としてAFを与えられ、「他人」と関わるとはどういうことかを学習する。Klaraは母子家庭だが裕福な家庭に育つ、Josieという少女にAFとして与えられる。Josieは病弱だが知性に優れ、絵の才能にも恵まれている。KlaraとJosieは互いになくてはならない存在となり、Klaraはしだいに人間への愛という感情を学ぶ。

Josieには、近所に住むRickyというほぼ同年齢の男友だちがいる。Rickyは母親と二人暮らしで、恐らく経済的理由で(出自の上からも何らかの差別があると示唆されている)、liftingの処置を受けていない。JosieとRickyはJosieの描く絵を通して、お互いに深く心を通わせている。
将来大学に行く予定の子どもたちは、Interaction Meetingというものに出席して、同年齢の仲間たちと付き合う練習をしなければならない。Josieの家で行われたInteraction MeetingにRickyも出席するが、こうしたいわば「選ばれた」子どもたちと、そうでないRickyはお互いに違和感を感じる。

Josieの病が悪化してその死が近いと感じた母は、Josieが亡くなった時に備えて、KlaraをJosieのクローンに育てようとする。
しかしKlaraはある種の自己犠牲的操作によって、太陽にJoesieの命乞いをする。Josieは少なくとも一時的には生命力を回復し、目標に向かって歩きだす。
力を削がれたKlaraはもはやAFとして働くことができず、スクラップ場で解体される運命である。
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一読、モチーフはかなりNever Let Me Goと重なっていると感じた。科学がいびつな発展を遂げて、本来の人間らしい活動よりは、効率や即物的な結果が優先される社会。子どもたちももちろんそうした社会のあり方に即して生きるしかない。経済格差や出自による差別、大気汚染、家族の解体・・・こうした現代社会の問題も、是正されるどころか、場合によっては悪くなっている。

そんなむしろディストピアともみえる社会を、Klaraは純粋な目で見つめ、大切に思うJosieを助けたいと願う。実際Klaraはまだ利害感情が育っていない子どもような心?を持っているが、子どものわがままや自分勝手とは程遠い、いわば天使のような無垢な存在なのだ。子どもに与えられるそうしたアンドロイドが、最初からそのように設計されているからかどうかは分からない。しかしまたこのAFたちは高い学習能力があり、周りの人間の言葉や行動から、次第に複雑な応答の仕方を学んでいく。もしかしたらネガティブな方向に学習するAFもいるかもしれないが、Klaraはそうではなく、けなげにKlaraの忠実な友人の役割を果たす。

明らかにNever Let Me Goと共通するモチーフ。
効率優先で小さい者、弱いものを犠牲にするそのような社会に、Ishiguroは無償の愛を対置する。愛という言葉で表現されているのは、つまり人間性の原理だと思う。本書でもNever Let Me Goでも、ほんとうに愛することができるのは人間ではなく、むしろアンドロイドやクローンだった。人間社会は彼らの犠牲の上で成り立つ「非人間」的な場になっていた。そのような社会にすることなく、少々不便や不自由があっても皆が心地よく落ち着いて生きていける社会とはどんなものか、今生きている私たちはどうやってそうした社会を構築していけるのか、それが作家Ishiguroが絶えず問い続けている問いなのではないか。

相変わらず真摯な作家の姿勢だが、設定がNever Let Me Goよりはやや説得力に欠けると感じた。いかにもありそうな素敵な英国の寄宿学校が、恐るべきブラックな制度の舞台となっていくあのインパクトは残念ながらここにはない。アンドロイドが次第に人間的能力や感性を身に着けて行くというのもよくある設定。再びSFを書くのなら、そしてモチーフが変わらないなら、もうちょっとぎょっとするような設定を考えて欲しかったというのはないものねだりだろうか。

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