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社会・政治

帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い

朴裕河

朝日新聞出版 2014.11.30

 

朴裕河さんの本は以前『和解のために』を読んで大きな感動を受けたので(このブログを始める前の2006年のことだ)、本書を期待をもって読んだが、まったく期待にたがわない本だった。 韓国と日本の間にある問題について、複雑な現実を複雑なままに受けとめ、安易な糾弾や批難の応酬だけに終わらせないで和解の道を探るために身を挺して来た朴氏だけれど、今も元「慰安婦」の女性たちから訴訟を起こされていて、なかなか道は厳しいようだ。けれど、細部ではいろいろあってもやっぱりこの道しかないと私には思われる。

本書の画期的な視点を以下にまとめてみた。不十分だが記憶のよすがとしたい。

〇 今まで日本=日本軍=加害者 vs. 韓国・朝鮮=慰安婦=被害者という単純な構図で捉えられてきた慰安婦の問題を、帝国主義植民地支配の問題として捉え直した。それによって、戦争に売春は付き物、という慰安婦=売春婦論をまじめに取り上げるに値しないものとした。また、植民地での支配・被支配の関係は、帝国が支配側で植民地が被支配側という単純な関係ではなく、双方の内部で重層的な権力関係が成り立っていた。そこに目を向けないと慰安婦問題をほんとうには解き難い。

〇 以上が大きな総論だが、以下各論。 日本軍が慰安婦を必要とし、募集と移動に関与したことは間違いないが、一方で朝鮮人の業者その他関係者が手先となって慰安婦事業に貢献したことも事実。

〇 韓国で慰安婦問題追求の主体となっているのは、挺隊協(韓国挺身隊問題対策協議会だが、挺身隊イコール慰安婦ではまったくない。

〇 慰安婦の多くが10代の少女だったというのは事実と違う。

〇 慰安婦のなかには日本兵と心を通わせていた人もいた。慰安婦を抵抗と闘争のシンボルにしてしまったら、ひとりひとりの人間としての悲しみ・苦しみと、そのなかでわずかに残った喜びや幸せをすくい上げることはできない。

〇 慰安婦問題について政府の対応を批判する日本人活動家も、慰安婦問題を社会改革の手立てとしてしまった。 ———————————————-

以下は引用。

慰安婦問題を「戦争」に付随する問題ではなく、「帝国」の問題として考えた(p.10)

女性たちの声にひたすら耳を澄ませる(p.10)

軍が慰安婦を必要とし、そして募集と移動に関与したことだけは否定できない(p.31)

日本も悪いが、その手先になっていた朝鮮人のほうがもっと憎い、と感じているとしたら、その声は重く受け止められるべきだった(p.50)

挺身隊とは、…女性たちを工場などの一般労働力として動員するためにつくった制度(p.53)

…そのような抵抗と違和感こそ、…親切心や愛とともに、圧倒的な暴力のなかで人間であり続ける砦でもあったはずだ(p.87)

…韓国の中で公的記憶になっていないのは、韓国がこれまで植民地時代ときちんと向かい合ってこなかったからである(p.113)

協力の記憶を消し、抵抗と闘争のイメージだけを表現する少女像では、日本に協力しなければならなかった朝鮮人慰安婦の本当の悲しみは表現できない(p.156)

運動の要求を考え直す(p.172)

帝国=植民地支配の問題が、それを可能する手段の一つにすぎない「戦争」のことと矮小化されてしまった(p.211)

河野談話の価値は…国家の間違いを初めて認めたこと(p.238)

慰安婦たちに必要だったのは、日本の社会改革ではなく、慰安婦たち自身のために謝罪と補償だった(p.266)

欧米の議決や勧告は…自分たちの女を蹂躙したアジアの元帝国を審判するものだったが、それを有効に使えたのも、この運動がいつしか「植民地」の要素を取り除いてしまったから(p.300)

過去において帝国主義的な侵略を行ったのは日本だけではない。しかし西洋発の帝国主義に参加してしまった日本が反帝国の旗を掲げるのは、西洋発の思想によって傷つけられたアジアが、初めて西洋を乗り越えることになり得る(p.313)